先日、イシゲスズコさんのブログを拝読しました。
これを読んで大変共感したのですが、その一方で、母として妻として働く女性として、様々な役割を自分に課すのは女性特有なのかなと思ったのでその話をしたいと思います。
なお、あらかじめお断りしておきますが、以下に記す内容はスズコさんに対して、そんなふうに考える必要はないんじゃない?とか、こう考えたらいいんじゃない?というようなことでは決してありませんので、その点誤解のないようよろしくお願いいたします。(そんなのおこがましすぎるし!)
スズコさんのブログはあくまで以下の内容を考えることになったきっかけに過ぎません。
さて僕自身、育児には積極的に関わっていると思う。妻の仕事は僕よりもはるかに忙しく、僕の仕事はほとんど残業がないし、さらに現在の妻は3人目を身ごもっているので、当然の成り行きだと思っている。
具体的には保育園の送り迎え、朝晩のご飯の準備などが僕の主な担当だ。プライベートな時間は職場のお昼休み、通勤時間(往復で1時間ほど)、家で1時間という感じ。
だからスズコさんがブログで書いていたような心境というのは本当によく共感するのだけど、一方で、父親としての自分、夫としての自分、という感覚は自分は希薄だなとも思った。それは、そういう自覚がないというのともまた微妙に違うのだけれども。
これは随所でよく言われることだけれど、結婚を機に女性は変わる、出産を機に女性は変わる。(そうしてそれらのタイミングであまり変わることのできない男性はよく非難される)しかし、スズコさんの記事を読んで、女性は変わっているというよりは、次々と新たな自分を見いだしているのかなと感じた。つまり、母としての自分、妻としての自分、職場の自分、女性としての自分、みたいな。
複数の自分がいるという前提で考えてみると、リソース(時間や労力)は限られているわけだから、ある自分ががんばれば、別の自分が犠牲になっていると考えやすくなるのではないだろうか。
その点男性は、結婚して子どもができて、やるべきタスクが次々と増えたと考えがちな気がする。一部の男性を除き、男性だって変わってないわけではないのだ。ただ、変わり方が女性とは少々異なっているようにも思う。
単純に日々のタスクが増えるという考え方をしていると、あるタスクをがんばることで別のタスクが犠牲になったとしても「トゥドゥが多すぎるんだよ、マジで!」というふうに環境に対して鬱憤の矛先が向くような気がする。
しかし複数の自分(人格といってもいいのかもしれない)を持っていると、ある一面において成功を収めても、どこかで犠牲になっている自分がいると考えてしまうのかもしれない。
それからもうひとつ、女性は複数の自分を持ちつつ、それぞれの自分においてあるべき理想像をかかげがちなのかもしれない。理想的な母、理想的な妻、理想的な女性など。ただこれは女性がそうしているというよりは、社会がそうさせているようにも思われる。現代ではずいぶん薄れてきた気はするけれど、そういう理想像はまだまだ根強い。
いずれにせよ、あまりにもたくさんの理想を掲げすぎると、例えば理想的な女性ではあるけれども、母としては理想的ではない、というような評価が起こり得てこれは好ましい事態ではない。そして、ふとした瞬間に立ち止まり、果たしてこのままでいいのだろうかと考えることがあったとき、その思考はおそらく自分自身の内面に向けて行われるだろう。
自分は理想通りに振る舞えているのだろうか、
これは本当に自分がしたいことなのだろうか、というふうに。
一方で男性は、理想像を持つことはあっても、それはだいたいひとつの形しか持たないような気がする。男性にとっては、理想的な自分であるかそうでないかの二者択一という感じ。そして、ふとした瞬間に立ち止まり、果たしてこのままでいいのだろうかと考えることがあったとき、内省するよりは、環境を変えようとしたり、タスクの効率化を目指したりするように思われる。
ところでこれらの思考のずれは、夫婦間のトラブルに発展しやすいことも留意しておくべきだろう。
もしも仮にスズコさんが僕の妻だったとして、ブログに書かれていたようなことを目の前で話されたら、きっと僕は原因を探り打開策を見出そうとするだろう。しかしそういうことは往々にして妻から求められてはいないものだ。
さてここまで話してきたことをまとめておこう。
結婚や出産を機に、男女ともに考え方やあるべき自分というのは変わるものだけれど、その変わり方には違いがあるのではないか。ここで強調しておきたいのは、どちらがよいとか悪いとかではなく、そういう性差があるかもしれないという、そういう話。
ただ、複数の自分を持ってそれぞれに理想をかかげていると「よくがんばったね、百点満点だよ!」と自分で自分をほめる機会を逃しやすいのは留意しておくべきだろう。
例えば、ある特定の役割を持つ自分が百点を取ったとしても、そこには別の自分の犠牲があったと考える人は、百点を素直に認めることができないのではないか。
そうだとすれば、これはとてももったいないことだと思う。特定の分野であれ、そしてそこに何らかの犠牲があったとしても、百点を取れたことは本当にすばらしいことなのだから。
もし、日々の生活に疲れ、立ち止まり、果たしてこれでよかったのだろうかと考えることがあったとしても、胸を張って自分がうまくやれたと言えることがひとつでもあるのであれば、それで十分なのではないか。そして仮に胸を張れるものがひとつもなかったとしても、自分を責める必要はまったくない。だってそれは至って普通のことなのだから。
そして育児に関わらずなにかに疲れたときは、ちょっとのあいだ現実から逃げ出したり、誰かに助けを求めたりすればいい。それはなにも恥ずかしいことではない。私たちはそういう寛容な社会、もしくは人間関係を目指すべきである。
というようなことをぼんやりと考えました。
なお、性差の観点で話を進めましたが、経験的にそんな気がしただけで確証はないです。
性差ではなく、個人差で捕らえるべきかもしれません。
tiwtterやってます。
我が家は4階。
— ほう太パパ (@houta30) 2016年5月17日
2歳の娘が階段で降りるブームで、1階まで降りる。そしたら上の息子が「ぼくはエレベーターがよかった」と泣き出し、2階まであがってそこから今度はエレベーターに乗ってまた降りる。これ保育園前の慌ただしい朝の話。
神様、私はいったいなんの試練に耐えているのでしょうか?