ほう太パパの七転び八起き

妻にナイショのブログじゃありません。

しつけなら、子どもを怒鳴ってもOK?

自分で言うのもなんですが、ぼくは寛容な心を持った気の長い人間のほうだと思います。正確に言えば、イラっと来る沸点のようなものはわりかし低い気もするんですが、とりあえずそれを自分のなかでおさめることができます。イラッときて、それを表に出すまでの幅が比較的広いということです。

例えばランチを食べに行って、お肉とお魚の2種類のランチがあったとして、魚のランチを注文したのに待てども待てども出てこず、ようやく店員さんがやってきたと思ったら「お客さまは、どちらのランチを注文されていましたでしょうか」と聞かれても「魚のほうです」とにこやかに答えます。そうしてしばらくして「魚が切れたのでお肉のほうはいかがでしょう」と言われても、まだにこやかにうなずけます。まあ、内心、なにかサービスがあるのかなと期待くらいはしますけれど。(結局、あのときはなにもなかった)

そんなぼくでも、イヤイヤ期の息子には声を荒げてしまいます。

息子の言動をほんの少しご紹介しましょう。

  • ご飯と味噌汁を出したら、パンじゃなきゃだめだと言います。
  • お風呂に入りません。無理矢理入れようとしたらたたかれます。入ったら入ったで、あがりたがりません。
  • 三輪車に乗ってでかけます。途中で飽きて降ります。だっこと言います。ぼくはだっこした状態で三輪車を押して帰るはめになります。
  • スーパーに買い物に行きます。カートに乗ってくれません。くつを脱ぎます。はだしで走り回ります。パン屋にかけこみ、むき出しの商品に触ろうとします。
  • 保育園に迎えに行きます。ここでもやはり、はだしで園庭に出ます。すべり台をすべります。ロッジのような建物に入り込んで、お店屋さんごっこが始まります。
  • 保育園を出ました。ぶらさがれそうなものが目につくと、強度とか関係なくぶらさがろうとします。アスファルトの段差を見つけます。座り込みます(不良の中高生みたい)。ご飯を食べるふりをします。隣に座れと言います。
  • 仕方がないのでだっこして家に帰ります。いい子でだっこされてるかと思いきや、突然のエビぞり。全幅の信頼で頭から落下。アスファルトの上に小さな石ころを見つける。寝転がる。

怒鳴ることはやむを得ないよね。

ぼくは体罰はいけないと思っていますが、怒鳴ることはやむを得ないしつけだと思っていました。しかし最近、その考えは間違っていたのではないかと思うことがあります。

ある日、怒鳴ったあとに息子がびくっとなって、小さい声で「びっくりするよ」と悲しげな顔で言い返してきたことがありました。そのとき、たとえ手を上げていないにしても、もしかしたら息子は大きなダメージを受けているのではないかと気づかされました。

言葉の暴力とか言いますけど、それを実感したのはこのときが初めてでした。

手を上げないにしても、怒鳴ることで恐怖心を与えて悪いことをさせないようにするのであれば、それはしつけではないですもんね。恐怖心がなくなったときに、結局やってはならないことをしてしまう人間になるのではなってしまうかもしれません。

体罰なし、怒鳴らない、じゃあ、どうするの?

これは随所で言われていることだと思いますが、もう、好きにやらせるしかありません。上に息子のわがままぶりを書きましたが、これくらいのことであれば、別に自由にさせたとしても大きな問題はないのかもしれません。

ただし、エビぞりや道路に寝転がるのは危険です。これは言って聞かせなければいけません。いままでは、ここで「怒鳴る」決断をしていたのです。ですが、これからは声をあらげずに、さとそうと思います。

 

いやいや、やさしく言って聞かせても効果ないよ。

 

なんて言葉が聞こえてきそうです。ぼく自身、そう思っていました。かつてのぼくを含め、こういう言葉を言う人は「効果」を勘違いしていると思います。

怒鳴る効果ってなんなのさ?

きつく言えばそのときは悪さをやめます。一見効果があったように見えます。

やさしくさとしたら、おそらくすぐには悪さをやめないでしょう。だから効果がないように見えます。でもぼくは、子どもは言われたことをちゃんと覚えていると思います。

もう一度悪さをしたときに、同じようにやさしくさとしてあげたらいいんです。

何度も何度も言って聞かせるうちに、きっとやめてくれると思います。

結果が出るまでに時間がかかることと、効果がないことは、等しくはないはずです。

もちろん、言っても聞かないあいだ(悪さをし続けているあいだ)は子どもから目を離してはいけません。特に危険性の高い悪さをしているときは。

かつては、危険性の高い悪さは怒鳴ってでも(あるいはたたいてでも)すぐにやめさせることが正しい、それがしつけだと思われていたように思います。

ですがぼくは、それは見守る労力を惜しんでいただけのように思われてなりません。

もちろん、ぼくたち親のほうには多大なストレスがかかります。だけどそれだけでしょう? 感受性豊かな子どもたちにストレスがかかるよりは、はるかにすてきなことじゃないでしょうか。

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