ほう太パパの七転び八起き

妻にナイショのブログじゃありません。

10-2を計算するときに、どこからか勝手に2を調達してくる息子の話。

長男が小学校にあがり、さっそく宿題も出ています。

で普段は育休中の妻が長男の宿題を見てくれているのですが、それがかなり負担になっているという話を聞いてまして、そもそも宿題をやりたがらないし、テレビを見たがるし、無理矢理させようとして泣くこともあるしと、まあ、その苦労は想像に難くありません。

さらに担任の先生からも「長男くんは特に算数と国語の理解度が気になります」とのお言葉をいただいていて、そのことがずっと気になっていました。そんなある日、たまたま私が早く帰宅することがありまして、息子の宿題を全部見る機会があったので、そのときの話を今日はしたいと思います。

 

長男の宿題はプリント1枚と音読です。

プリント1枚は半分が国語、半分が算数でした。

国語は、絵を見てそれを表す言葉をひらがなで書くというもので、これはすんなりできていました。

算数は足し算と引き算で、足し算はスルッとできました。ここまでの様子を見て、以外と長男はできるじゃん!と思ったのです。

 

ですが問題はそのあとの引き算でした。

 

例えば、

10-2=10

と回答するのです。

 

それで引き算の概念を教えるために、積み木のようなものをテーブルに10個並べて「ここから2個取ってごらん」と積み木を取らせました。そして残った数を数えさせて「8」と答えることができました。

しかししばらくすると、

3-3=3

みたいなことを書くのです。

 

「いやいやいや、だってさ、例えばチョコレートが3個あって、3個食べて、3個残ってたらそれおかしいじゃん!」

 

と冗談まじりに私がいうと、私の言い方が面白かったのか、そこは笑います。だけども引き算の概念をやっぱりきちんと理解できていない。で、長男がいったいどういうふうに考えてこの計算にたどりつくのか、そこに関心が向き、計算問題の下にあった長文形式(といっても小1の問題ですから、とても短い文章なのですが)を解かせてみました。

 

問題は次のようなものでした。

ふうせんが10個あります。そのうち2個が割れました。さてふうせんは、いくつのこっているでしょう?

これを解くために、長男に積み木を10個並べさせました。そこまではできます。

「うん、よくできたね。じゃあ、2個が割れたってことはどういうこと?」

と聞くと、長男は並べた10個の積み木とは別に、追加で積み木を2個並べたのです。つまり、テーブルの上には12個の積み木!

「・・・う、うん。それで2個割れたらから・・・」

と促すと2個を取りました。で、テーブルの上には10個残っているので、

10-2=10

という式が成り立つのです。

 

「2を勝手に持ってきちゃいけない」

と言うのは簡単です。でも、それでは長男は納得しないのです。

「ふうんせんが10個あります」で彼の頭に10個の風船が並びます。「そのうち2個が割れました」で、2個追加される。もし問題文が「さらに3個割れました」となっていればおそらく彼の頭の中には15個の風船が並ぶのでしょう。つまりなんというか、文章で出てきた数字が次々に加算されていくのですね。言い換えると、

12-2=10

の計算はできているとも言えるわけで、どちらかというとこれは文章の理解力の問題です。国語の学力と言ってもいいかもしれません。担任の先生の「長男くんは算数と国語の理解度が気になります」の言葉ともつながります。

 

本当はここで解決策まで提示できるとこの記事としての価値も高まると思うのですが、残念ながらまだそこには至っていません。おそらくこれは時間をかけて克服していかなくてはいけないことなのだろうと思っています。もし解決ができたら、追記しますね。

 

ところで国語の宿題の中に、こんな問題もありました。

Xの部分に、「わ」か「は」を入れて文章を完成させましょう。

XなげXたのしい

 

そして息子は「はなげわたのしい」という文章を完成させて爆笑してました。

これ問題の作成者もねらってるよね、ぜったい。

 

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やるのもイヤ、やらないのもイヤ。ああ、どうして世界はこうも私に迫ってくるの?

長男が小学校に入り、なんとなくは想像していたことだが、保育園とは違ってやらなくちゃいけないことがたくさんある。あ、親がという意味じゃなく本人が、という意味で。

 

保育園までは、とりあえず保育園に行きさえすれば参加賞がもらえるというか、保育園の中ではある程度自由で、特別にしばられることはなかったと思う。(息子からすれば「そんなことはない」と怒られそうだが。とりあえずそこんところはおいておいて)しかし小学校に入ればひとりでの登下校はもちろんのこと、忘れ物をしないことであったり、宿題であったり、給食を残さず食べることであったり、長男にとってはやらなくちゃいけないことが目白押しだ。

 

ぼくも妻も、多少の差異はあるけれど、あまり子どもに対して「あれをやりなさい、これをやりなさい」とガミガミ言いたくないという考えを持っている。なので、ちょっと語弊があるかもしれないが、例えば息子が宿題をやりたくないというのであれば「無理してやらなくてもいいよ」と声をかけることもある。それで宿題をやらないまま小学校に行くことがあっても、宿題の大切さは少しずつ本人が感じ取っていけばいいと考えていて、放任と尊重は紙一重ではあるのだけど、無理矢理宿題をやらせて勉強嫌いになってもいけないし。

 

ところが長男は、宿題をやらなくてもいいとこちらが言っても、気持ちは落ち着かず、場合によっては泣きわめいたりする。つまり宿題をやるのはイヤなのだが、それと同じくらいやらないのもイヤなのだ。これはなかなか困ったものであるが、気持ちは分からないでもない。

 

宿題をしないと先生に怒られると思っているのか詳しいところはよく分からないけれど、やらなくちゃいけないこと、という認識は本人の中でもあるのだろう。長男は金曜日の夜のうちから、月曜日からの小学校生活のことを考えてゆううつになるような面を持ち合わせているので(ほんと、そういうところはぼくによく似てると思うのだが)もう少し気楽に考えていいと思うのだけど、心配や不安を先取りするのが良くも悪くも彼らしい。

 

そんな長男の目下の課題は、先日から始まったプールだ。

 

保育園のころからプールは大の苦手だったけれど、それでもそのころはひざ丈くらいのプールだったわけで、それが一気に小学校では6年生のお兄ちゃんお姉ちゃんも使うような本格的なサイズになったものだから、尻込みする気持ちもよく分かる。特に息子は身長が低いからこわいだろうなー。

 

そんなこんなで息子はプールの授業をさぼっている。

 

いや、さぼっていると言うと聞こえが悪いが、担任の先生とも相談し、無理強いはしないということで、いわば公認のさぼりなのだ。毎回「咳が出てるから」とか「下痢をしているから」ともっともらしい理由をつけているけれど、それらは後付けの理由。でも不思議なことに、咳も下痢も症状としては本当にあったりして、病は気からというか、体と心は本当につながっているよねえと再確認させられる。幸いひどい症状ではないけれど。

 

それにしても、プールが苦手だということで寛大な措置を取ってくださる小学校(先生)には感謝している。自分が小学校のころでは考えられないような寛大さだと思う。(いや、もちろん、当時は小学生だったわけだから、本当のところは分からないわけだけれども)昔だったら「甘えるな!根性で泳げ!」と言われてもおかしくなかったのではないかと。昔に比べると子どもの気持ちに寄り添う面が強くなっているのかもしれない。

 

しかしいつまでも逃げているわけにもいかない、と父としては思うわけである。

 

ということで長男をいわゆるスイミングスクールに通わせて、少しずつプールになれさせる予定だ。もちろんスイミングスクールも「イヤー!!」となる可能性は大いに高く、不安いっぱいなのだけど、とりあえずは近場のスクールに見学しに行ってみようと思う。

 

ちなみにかく言うぼくも、プールは大の苦手だった。それで小学校3年生か4年生かで、やっぱりスイミングスクールみたいなのに短期間通って、幸いにしてそこで泳げるようになった。そして大人になってからは、健康のためにと趣味で泳ぐこともある。勉強でもこういうことはよく聞く話で、子どものころは勉強が大嫌いだったけれど、大人になってから有料のセミナーなどに通って楽しく勉強することもあるのだ。苦手なことが必ずしも嫌いとは限らないし、何かの拍子にその楽しさに気がつくこともある。

 

無理強いして物事を嫌いになってもらいたくない反面、困難にぶち当たるたびに逃げていてはいけないのだよ、ということを伝え、視点をうまく変えて物事の面白さを見せていくというのはなかなかに骨の折れる作業であるが、それが育児の醍醐味とも言えるわけだ。長男にはプールも勉強も嫌いになってもらいたくないよなあ。

 

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祝!息子の登下校とツツジの蜜。

先日(6月20日)ようやく長男がひとりで(正確には友だちとのグループで)小学校へ登校できた。長男は今年の春から小学1年生。ひとりで登校できるようになるのに、およそ3ヶ月を要したことになる。

 

この月日を長いとみるか短いとみるかは様々だろうけど、保育園を卒園するまで保育園を好きになれなかった長男のことを思い返せば、思ってたよりも順調に両親の手を離れたなというのがぼくの感想だ。一緒に登校するグループの中にはしっかりした女の子がいて(長男と同じ1年生なのだが)あの子が一緒に行ってくれるのなら安心だなと思っているのだけど、帰ってきた息子の話を聞いてみると「長男くんは道を分かってないよね」とか言われたらしく、そのことで本人はムッとしていた。ふてくされてた。まあ、道は分かっているだろうが、すぐに通りに飛び出してあぶなっかしいもんなあ。

 

長男がひとりで登下校できるようになって、ふと自分が1年生だったころを思い出した。ぼくの家は小学校から結構遠くて(googleマップで測ったら2kmほどあった)たしか1時間くらいをかけて歩いていたと思う。母はとても心配していたけど、ぼくとしては結構楽しみながら登下校していて、そんなにつらかった記憶はない。むしろ登下校中にはいろんなことがあって、いまでも思い出すたくさんの出来事がある。

 

例えば、登下校のちょうど中間地点にガソリンスタンドがあった。

そこでぼくはよく、お茶を飲ませてもらっていた。毎日ではないけれど、それなりの回数、お茶をごちそうしてもらったことを覚えている。そしてまれにオレンジジュースが出てくることもあった。あれから30年以上が経過したいまでも、あのジュースを超える甘さに出会ったことはない。

 

なぜガソリンスタンドで飲み物をごちそうしてもらえていたのかは謎のままだが、あるとき友だちが「あのガソリンスタンドでお茶を飲めるよ」と言い出して、半信半疑でついていったらほんとうにお茶を飲ませてもらえたのだ。たしか4,5人のグループで飲みに行っていたと思う。

 

ここまで書いて、ああ、もしかしてガソリンスタンドでごちそうしてくれてたのは、同じ小学校に通う保護者だったのかなと気がついた。にしても、直接の接点のない子どもたちにお茶をごちそうするというのは、経済的にも、手間の面でも、安全性の面でも、いろいろと大変なことだったろう。おそらくこういうことは今のご時世ではまず見られないことだろうけれど(いや、当時でもめずらしかったか)蒸し暑い日にてくてく歩いて、あのガソリンスタンドで飲んだお茶は最高においしかった。

 

最高においしかったと言えば、ある日一緒に帰っていた友だちが、ツツジの花をつんで「これ飲んでみ」とぼくに差し出してきたことがあった。ぼくは花に対してまったく関心のない子どもで、蜜を飲むなんて発想もまるでなく、こんなのがおいしいわけ・・・と思いながら飲んだら「なんじゃこりゃー」て登下校の中心で叫んじゃって、ぼくは家に帰るなりそのことを母に報告した。しかし母がその感動を共感してくれることはなく「野外に咲いているものをむやみに口にしてはいけません」と、叱られたというのは大げさだけれど、えらく心配されたことを覚えている。つまんないなーと当時のぼくは思ったけれど、こうして子どもを持つ身になると、母の気持ちも分からないでもない。だけれどもあのおいしさを共感してもらえなかった寂しさが、30年以上を経ても残っているわけだから、子どもへの接し方はゆめゆめ気をつけなくてはならないものだなあ。

 

そうしてぼくは、あのころのぼくと同い年になった息子が、ある日にこにことツツジの花びら片手に帰ってくる日を心待ちにしている。

 

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